イスラーム | Islam

【アラビア語レッスン】グンナ(鼻から音を出すこと)に苦戦中…頭ではなく、体で覚えるしかない!

ムスハフ

夜、アラビア語発音のレッスンをオンラインで受けています。

いつから始まったんだっけ…以前の投稿を見たら、5月24日からでした。

スタートしてからいつの間にか5ヶ月近くが経過。

الحمد لله

BUKU IQRO’という教材が終わり、現在は一度覚えたクルアーンのスーラを、正確なタジュウィードで読めるように復習しています。

たぶん、最初にアラビア語を教えてくれた親友のアジジルや妻、そのほかの方も何度か指摘してくださっていたと思うのですが…
ن
の発音の仕分けが正しく身に付いておらず、苦戦しています。

الحمد لله

日本語で読めるタジュウィードのテキストがない…と思い込んでいたのですが、先生から紹介していただきました。

日本語のタジュウィードテキスト

今まで感覚に頼ったり、外国人のQari(クルアーン読誦者)の発音をただ(ルールもよく分からずに)真似たりしていただけでしたが、日本語で解説を読んだことで、ルールが明確になりました。

最近学んだこと:グンナ(鼻から音を出す)して読む場所

  • イクラーブ:بの前のنはمの発音で読む(グンナあり)
  • イフファー:نを隠してグンナで読む(グンナあり)
  • イドガーム・ビグンナ:ي و م نの前のن→つないで読む(グンナあり)
  • イドガーム・ビラー・グンナ:ل رの前のن→つないで読む(グンナなし)
  • イズハール:ء ه ع ح غ خの前のن→つながない(グンナなし)

改めてムスハフを見ると、ちゃんとわかりやすく色分けなどされていたのですが、知らないものは見えない、という状況でした。

ان شاء الله

今後は、必ずムスハフを開いて練習したいと思います。

クルアーンを覚え始めた最初の頃はアラビア文字が全く読めなかったため、耳に頼って覚える癖がついていました。

しかも、頭の中で知らないルールはそぎ落とされ、間違って変換されてしまっていたと思います。

今後は、

  • ムスハフを開いて繰り返し正確に読む→頭ではなく口・舌・鼻・喉の感覚・耳を慣れさせる
  • Qariの発音を聴くときもムスハフを開いて正確に目で追う

を意識していきたいと思います。

ジャパンダアワセンター開催のオンライン授業(使徒たちへの信仰)に参加しました。

ジャパンダアワセンターのオンライン授業

先月、初めてジャパンダアワセンターが月に1回開催しているオンラインのイスラーム授業(講師:アフマッド前野先生)に参加しました。

الحمد لله

イスラームの六信の基本について学ぶ授業ということだそうですが、ふだんの自分の信仰のあり方や、理解の仕方、モスクの授業での子どもたち(大人も含む)への伝え方などを見直す好機になったと思いました。

ان شاء الله

ムスリムが少ない日本ではそういった機会は少ないので、オンラインで参加できることを幸いに、今後も積極的に聴講していきたいと思います。

さて、本日のテーマは「六信編その二 使徒たちへの信仰で揺るぎない信心を培う」でした(今回も講師は前野先生)。

人間には生まれ持った天性(フィトラ)があり、それを守ることができれば自然にタウヒード(唯一神信仰)へと導かれる…でも、導かれた後は使徒・預言者の存在が必要…。

自分がイスラームに導かれたときのことを回想しながら聞いていました。

自分の思考や直感は唯一神(アッラー)の信仰へと導かれていきますが、「じゃあその上で、何をどうやったらいい?」(とくに具体的な「どう」の部分)については、使徒・預言者という方々の言行から知っていくしかない。

「人間はうぬぼれやすい・我流を良しとしがち」ということも、自分やほかの人を見て、日々(とくに最近よく)感じていることでした。

授業では預言者ムハンマド様(SAW)の「人間としての側面(日常生活の具体的な模範)」・「光としての側面(アッラーとの心のつながりを強めるためにアッラーから与えられた特質)」の両面から、彼を愛することの重要さが説かれました。

ムハンマド様(SAW)への愛を深める方法として紹介されたのは、以下の7つでした。

 

  1. ムハンマド様(SAW)について知ること
  2. ムハンマド様(SAW)の時代の教友(サハーバ)たち(RA)について知ること
  3. サラワート(祝福祈願)をたくさんすること
  4. 彼(SAW)のスンナに従うこと
  5. 彼(SAW)の末裔・学者に会うこと
  6. 彼(SAW)からの教えの系譜に加わること
  7. 彼(SAW)を愛する人たちと共にあること

 

です。

前野先生ご自身は、「サラワート(祝福祈願)をたくさんすること」「彼(SAW)の末裔・学者に会うこと」がとくに大きなきっかけとなり、ムハンマド様(SAW)への愛を深められたとのことでした。

そしてこの授業で最も自分に響いてきたこと。それは、「正しくムハンマド様(SAW)に従うとはどういうことか」について議論が絶えない中、本質を見極めるためとして教示された次の言葉です。

「あらゆるものへの慈悲」に近づくための道につながっているかどうか

同じイスラームについて語る言葉であっても、「よい想念」「敬愛」「受容」に向かうものなのか、それとも「邪推」「軽蔑」「排除」に向かうものなのか…。

ان شاء الله

いろいろな情報、議論、言葉、ほかの人のあり方、自分自身の心のあり方…迷いそうになったら思い出したいと思います。

そして授業終了後、ジャパンダアワセンターにてイスラームについて勉強された日本人の女性がシャハーダを行い、それをオンラインで見守りました。

ここでも前野先生が3つのアドバイスをされていましたが、自分自身へのアドバイスとして受け止めました。

 

  1. 信仰は生ものなので早めにケアして大切に
  2. 世界中のムスリムみんなが同胞になるが、ムスリムになる=外国人になることではない。ムスリムとしてのアイデンティティを大切にしつつも日本で生まれたことも大切に
  3. マイペースに歩む(たくさんの「親切」なアドバイスの海に溺れてしまわない)

 

イスラームへの入信、おめでとうございます。

الحمد لله

ジャパンダアワセンターの活動や前野先生の活動に敬意を抱きつつ、学びの機会を得られたことに感謝しています。

جزاك الله خيرا

アッラーの祝福がたくさんありますように!

100円ショップにて、外出時のイスティンジャーに役立つグッズに思いがけず遭遇

BotLLet携帯用おしり洗浄具

写真は、本日100円ショップ「Can Do(キャンドゥ)」で出会った、「BotLLet携帯用おしり洗浄具」(株式会社小久保工業所)です。

金曜礼拝からの帰り道、駅の近くのキャンドゥに立ち寄ることが多いのですが、今日も「トイレ用のお掃除シートが残り1枚だったよな…」と思って足を運びました。

トイレ関係の商品が並ぶ棚に行き、お目当てのお掃除シートを確保。

「ほかにどんなものが売ってるのかな…」と周囲を見回していたら、その出会いは突然訪れました!

الحمد لله

実は、求めていたんです!こういうの!!!

先日妻が電車に乗って移動したときのことです。

彼女は駅や電車内のトイレを使いたくないと言いました。

なぜならトイレがウォシュレットではなく、水で洗うことができないからです。

イスラームでは、用を足した後は排泄部位を水でキレイにするイスティンジャーや、紙や石で拭き取るイスティジュマールをしなくてはなりません。

これを怠ると、礼拝前に行う浄めが成立しなくなり、礼拝ができなくなってしまいます

イスラム圏ではトイレにイスティンジャー用のハンドシャワーが備え付けられていることが多いようです(私はモスクで見ました。インドネシアに行ったときは、水の入った容器が置かれていたかな…)。

用を足した後トイレットペーパーで拭くだけというのはどうも不潔に感じられてしまうのです。

妻には「水の入ったペットボトルを持ち歩くようにしようか…」などと言っていたのですが、まさにこの問題解決に役立つグッズではないですか!

収納されたノズル

写真のように、ノズルはペットボトル内に収納できます。

空のペットボトルを携帯し、必要なときに水を入れれば使えます。

何て便利!

帰宅後、実際に水を入れて、水の発射実験を行いました。

役立ちそうです。

100円ショップ…創意工夫に溢れた便利な商品が他にもありそうで、興味深いです。

日本語で読めてイスラーム入門に役立った本

イスラームの本

「イスラームに興味があるんですが、何かおすすめの本はありませんか?」

「日本人でイスラームに興味を持っている人に本を紹介したいんですが、何かいい本ありますか?」

などと聞かれることがたまにあります。

私自身もイスラーム初学者ですが、3年間で読んだ本の中から、イスラームの基本を知る助けになった本を紹介します。

イスラームに興味を持った方、イスラームに入信したばかりで何を読んだらよいかわからない方、イスラームに興味のある日本人にどんな本を勧めたらよいかわからない外国人ムスリムの方などの参考になりましたら幸いです。

イスラームの聖典『クルアーン』

『日亜対訳クルアーン』とアラビア語のムスハフ

イスラームの基本は唯一神アッラーのみを崇拝の対象とすることです。

アッラーは自身の言葉を人間の預言者(メッセンジャー)に託したとされます。

そしてイスラームでは最後の預言者がムハンマド(S.A.W)、ムハンマド(S.A.W)を通してアッラーが人類に伝えたメッセージが『クルアーン』だと信じます。

そのため、イスラームについて知ろうとする場合、『クルアーン』を読まなくてはなりません。

ただし、『クルアーン』はアッラーが天使ジブリールを通じてムハンマド(S.A.W)にアラビア語で下されたものです。

他言語に翻訳されたものは『クルアーン』としては認められません。

古典アラビア語を身につけ、原語で『クルアーン』を読み、『クルアーン』の解釈(タフスィール)も学んでいかなくてはならないでしょう。

とはいえ、日本人のわれわれにとってこれはハードルが高く感じられます。

「正確な翻訳は存在しえないにしても、日本語で『クルアーン』の内容を大まかに知りたい」と私も思いました。

そこで『クルアーン』の日本語訳を手に取ることになります。私も一番最初に読んだイスラームの本は日本語訳された『クルアーン』でした。

今、私の本棚にはアラビア語の『クルアーン』の他に、以下の日本語訳された『クルアーン』があります。

  • 中田考(監訳)『日亜対訳クルアーン』作品社、2014年
  • 『日亜対訳注解聖クルアーン』日本ムスリム協会、1982年
  • 水谷周(監訳)・杉本恭一郎(訳補完)『クルアーン やさしい和訳』国書刊行会、2019年
  • ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷コンプレックス版『聖クルアーン 日亜対訳注解』2019年(※2020年8月11日加筆)

最初に手に取ったのは作品社の『日亜対訳クルアーン』です。

通読のしやすさから『クルアーン やさしい和訳』(第1版では間違いが多く、持っているのは修正された第2版)も読み、現在は再び『日亜対訳クルアーン』を読んでいます。

イスラームに入信する前から何度も読んでいますが、読む度に新しい発見があります。

しかも読んでいる時点の自分には捉えきれないものが常にたくさんあるのを感じます。

Tajweed Quran for Learning

日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解

クルアーン:やさしい和訳

ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷コンプレックス版については2020年8月現在、応募多数のため無料送付の受付が停止となっています。

読みやすくわかりやすい入門書が欲しい方におすすめ

『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』『日本一わかりやすいイスラーム講座』

『クルアーン』の日本語訳を紹介しましたが、「そもそも『クルアーン』とは何かを含めてわかりやすくイスラームの概要を知りたい」と考える方は多いでしょう。

そんな方におすすめしたいのが以下の2冊です。

  • 中田考・天川まなる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』サイゾー、2020年
  • 勝谷誠彦・中田考『日本一わかりやすいイスラーム講座』アスコム、2015年

『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』

イスラームの基本的なことについて、マンガを読んで楽しみながら知ることができます。

天川まなるさんによるマンガは細部までとても美しく描かれています。

ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門

[参考記事]楽しくイスラーム入門!:中田考&天川まなる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』 

『日本一わかりやすいイスラーム講座』

こちらはマンガではありませんが、コラムニストの勝谷誠彦さんとイスラーム学者の中田考先生との対談形式で、イスラームについてわかりやすく知ることができます。

活字が大きくて読みやすく、イスラームについて知らない日本人が特に知りたいと思っているトピックに沿って進んでいきます。

イスラームを知る上で重要なポイントが簡潔に書かれています。

  • 一時限目:イスラームの人たちは、みんな好戦的なんですか?
  • 二時限目:「イスラーム国」事件の真相を教えてください
  • 三時限目:イスラーム教の何が魅力なんですか?
  • 四時限目:イスラームの人たちの考え方は、我々とどう違うんですか?
  • 五時限目:ユダヤ教やキリスト教と何が違うんですか?
  • 六時限目:イスラームは本当に世界を乗っ取るんですか?

日本でいちばんイスラームを知っている中田考先生に、灘高で同級の勝谷誠彦が教えてもらった! 日本一わかりやすいイスラーム講座

より詳しく知りたい方向けの本

イスラームの本

先の2冊よりもさらに踏み込んでまとめられている(と思われる)本を紹介します。

  • 松山洋平『イスラーム思想を読みとく』筑摩書房、2017年
  • 中田考『イスラーム入門』集英社、2017年
  • 中田考『イスラームの論理』筑摩書房、2016年

ちなみに、中田先生ご本人は、『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』の次におすすめな本について、Twitterで下記のようにおっしゃられていました。

『イスラーム思想を読みとく』

イスラーム思想史を専門にされている松山洋平先生の本です。

序章は「日本のイスラーム理解」。

ムスリムでない日本人は、イスラームは「豚肉厳禁」「禁酒」「禁欲」「断食」「礼拝」といった戒律重視の「術の体系」であると誤解しがちです。

しかし、実際のイスラームは心の中に信仰をもつ(宗教儀礼よりも心の中で真実であると信じることが重視される)「信条の体系」として見ていくことが大切である、といったことがわかりやすく書かれています(酒を飲んでも豚を食べてもムスリム)。

そこから、そもそもイスラームの「信仰」とは何か、信仰と不信仰をめぐる神学的な背景、スンナ派の主要な神学潮流やそれらの中の対立構造、穏健派と過激派の見解の相違、イスラーム法学における解釈の正統性といったテーマが扱われます。

「イスラームとは何か」ということ、イスラームをキーワードに近現代の世界で起きたこと・起きていること、これから先の世界についての視野が広がりました。

イスラーム思想を読みとく (ちくま新書)

『イスラーム入門』

イスラームをめぐる重要な99のトピックについて解説されています。

「入門」とありますが、全くイスラームのことを知らない方には若干ハードルが高く、すでに何らかのイスラーム入門本を読んでいたり、高校世界史の知識がざっくりと頭に残っている方向けであるように感じました。

私はこの本の「序」が好きで、これまでに何度か読み返しています。

これからも「イスラームはわからない」という原点に何度も立ち戻りたいと思います。

イスラームの完全な理解は預言者ムハンマドだけにしかありえません。だから私たちに本当にイスラームが理解できる、と思うのは間違いです。私たちは自分が理解できることを理解するだけなのです。そしてそれで構わないのです。(p.17)

イスラームを異文化として理解することは、これまで当たり前であると思っていた自分たちの世界観が数ある世界観の一つに過ぎないこと、常識だと思っていたことがある文化の中でしか通用しない偏見でしかないことに気付くこと、つまりは、自己の理解の限界を自覚することによって、理解の地平を広げ自己変容を遂げることです。(pp.17-18)

──中田考『イスラーム入門』

イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉 (集英社新書)

『イスラームの論理』

冒頭で、まず日本人である私たちとイスラームとの間には幾重ものベールがあることが述べられます。

そこから「イスラーム」そのものの漠然としたイメージや「先行理解=先入観」への反省から出発すべきだと説かれています。

そのためこの本では、私たち日本人がイスラームを理解しようというときに土台となっている認識そのものを問うべく、「イスラームと現代世界」「イスラームと日本」といったテーマからスタートしているのです。

その後で「アッラー」や「預言者ムハンマド」「ウンマの歴史」といったイスラームの教義や歴史についての重要なテーマについて説明されていきます。

結果的に、

「自分は普段世界をどう見ているのか(どのような認識に縛られているのか)」

「世界と自分との関係はどうなっているのか」

「この世界の中で自分はどう生きるのか」といった問題と向き合うことになります。

イスラームについて考えることは、自分がいるこの世界(時間・空間の両者を含む)について考えることと同じだということに気づかされるのです。

2回読んだのですが内容はまだまだ消化し切れていないと思います。他の本も読んで視野を広げつつ、今後も繰り返し読みたい本です。

イスラームの論理 (筑摩選書)

[参考記事]日本の哲学(?)とイスラームの地平融合へ:中田考先生『イスラームの論理』

その他に読んだ中田先生の本

ここまで紹介してきた本以外に、『私はなぜイスラーム教徒になったのか』『イスラーム 生と死と聖戦』といった本も読んでいます。

イスラームについて、そしてムスリムとして生きていくことについて、外国人ムスリムの方との関わり方や感覚の違いについてなど、普段からモヤモヤと考えていたことについて、理解を深めさせていただきました。

電子書籍で一度読んだだけなので、また読み返したいと思います。

私はなぜイスラーム教徒になったのか

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書)

クルアーンについての基礎知識を得ることができる本

クルアーンについての本

最初の方で日本語訳された『クルアーン』を紹介しましたが、『クルアーン』自体をテーマにした本もあります。

  • 松山洋平編『クルアーン入門』作品社、2018年
  • 中田考・橋爪大三郎『クルアーンを読む』太田出版、2015年

『クルアーン入門』

『クルアーン入門』は500ページほどある分厚い本ですが、内容自体は平易に書かれていて読みやすいと感じました。

「クルアーンとは何か」「クルアーン解釈の方法とは」といった内容の他に、「クルアーンとジハード」「クルアーンとジェンダー」「クルアーンの読み方とヘブライ語聖書の読み方」「クルアーンにおけるイエス」「ムスリムからみたブッダ」といった現代の私たちにとって興味深いトピックについても収録されています。

「アラビア語の学び方」「スンナ派とは何か」「イスラーイーリヤート」といった興味深いコラムも楽しめます。

『クルアーンを読む』

『クルアーンを読む』は、中田先生と社会学者の橋爪大三郎先生との対談形式の本です。

さまざまな文明、宗教、正典の比較の中で、「『クルアーン』とは何か」が掘り下げられていきます。

橋爪先生が非ムスリムの立場から中田先生に突っ込んだ質問をされたりしており、「神」「歴史」「法」といったことについても興味深い対話が展開されています。

後半ではシーア派やカリフ制についてとても興味深い内容になっていました。

クルアーン入門

クルアーンを読む (atプラス叢書13)

自分の不勉強さを感じつつ…今後もイスラーム・世界について学んでいきたい

ここまでブログを書いてきて、今まで読んだ本についての自分の理解の浅さを感じました。

自分に与えられたチャンスをもっと貪欲に生かして学ばなければいけないな、と思います。

コロナウイルスで外出自粛となっている今年のラマダーン、本もたくさん読みたいと思っています。

イスラームについて興味をお持ちの方も、ぜひいろいろな本を手に取ってみてください。

楽しくイスラーム入門!:中田考&天川まなる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』

『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム』

中田考先生&天川まなるさんによる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』が昨日届き、楽しく読み終えました。

先日、同じく中田先生と勝谷誠彦さんの『日本一わかりやすいイスラーム講座』を読み、「イスラームに興味のある人に勧めたい!」と思ったのですが、この本もぜひお勧めしたいです。

イスラームに興味を持つ日本人の方の中には、外国人イスラーム教徒と知り合いという方もいるでしょう。

この本はマンガが入っているので、彼らと楽しくコミュニケーションするきっかけになるかもしれません。

実際に私もパラパラとページをめくりつつ、インドネシア人の妻と盛り上がりました(ムスリムのファッションのページなど)。

イスラーム教徒でない方がイスラームについて疑問に思うことについて、わかりやすく完結に説明されている本です。

また、マンガが面白い展開で進んでいくので、思わずどんどんページをめくってしまいます。

さらにマンガは細部まで美しく描かれているので、それをじっくり味わって楽しむこともできます。

『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』見開き

日本人以外のイスラーム教徒の方が、イスラーム教徒でない日本人にイスラームについて伝えたいときにも役立つと思います(日本語でイスラーム教について聞かれ、答えるのが難しいと感じている方も多いでしょう)。

活字だけだと最後まで読めない方やお子さまにもおすすめです!

来週からのラマダーン。私もこれまで手にしたイスラーム関連の本を再び(本によっては三度、四度!?)読み直してみようと思います。

ان شاء الله

中田考・天川まなる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』

勝谷誠彦・中田考『日本一わかりやすいイスラーム講座』

日本の哲学(?)とイスラームの地平融合へ:中田考先生『イスラームの論理』

6月末に中田考先生の『イスラームの論理』を再読し、その後、ナーブルスィーの『神秘哲学集成』を手に取りました(時間をかけて読むべき本だと思うので、ゆっくり読み進めています…というか、ゆっくりとしか読めない)。

1週間に5章くらいずつ『やさしい神様のお話』もゆっくり読み進めているのですが、ここでタウヒード(神の唯一性)について繰り返し説かれていることが、そのほかのいろいろな本の理解を深めるのに役立っていると感じています。

『やさしい神様のお話』を読み進めている中でふと頭に浮かぶのが、学生時代に興味を持っていた(しかしきちんと読んでいない)西田幾多郎の哲学です。たまたま6月末に亡くなった上田閑照さんの『私とは何か』(学生時代にゼミで一部が扱われた/西田幾多郎やブーバーの思想が紹介される)が手元にあったので、再読しました。この本を読んで考えたことも、別の記事に書くかもしれません。

ان شاء الله

『イスラームの論理』の冒頭では、現代日本からイスラームに迫るためには、複数のヴェールが間に挟まっているという認識をまず持たなくてはならないということが示されます。

  1. 日本語というヴェール
  2. イスラーム世界が持つヴェール(イスラム圏の人たちのイスラーム理解、およびそこから伝わるイスラームには、普遍宗教としてのイスラームだけでなく、その地域の文化的イスラームが溶解してしまっている)
  3. 日本文化・オリエンタリズムの二重のヴェール(戦後日本のイスラーム学は、西欧オリエンタリズムの価値観を内面化している)
  4. 国家というヴェール
  5. 時間のヴェール(時間の経過によるウンマ内での知の喪失とノイズの堆積)

です。

これらのヴェールを認識することなしに「イスラームと呼ばれているもの」をそのまま「イスラーム」として受け取ってしまうことは、大きな誤認に陥ってしまうということでしょう。そのためこの本では、あえて「イスラームと現代世界」「日本とイスラーム」といったところから話しが進められ、現代日本にいる私たちとイスラームの間にあるヴェールを可視化することを促しているように思えました。

資本主義、現代の偶像、イスラーム世界の植民地化、カリフ制再興、ハラール認証の偶像崇拝…といった興味深いトピックが取り上げられていきますが、中でも私が特に気になったのが、「日本とイスラーム」の「イスラーム・日本文化の現在」と「アッラー」です。

「イスラーム・日本文化の現在」のところでは、永井均先生の<私>を巡る哲学の言葉が引用され、[日本の思想→タウヒードの認識→「人格神神学」]という流れが紹介されていました。タウヒードの唯一神が、クルアーンをもたらしたアッラー(人格神)であると同定するのがイスラーム神学の大きな課題であるというのを読んだ気がするのですが、ここにつながるイメージを持ちました。

また、[日本の思想→タウヒードの認識→「人格神神学」]の流れは、現代日本で生まれ育った私自身がムスリムに目覚めた過程に重なってくるとも感じました(私自身は直感に導かれていた部分が大きいのですが、そこには論理的な道筋があるという感覚もありました)。

中田先生は永井先生の哲学について、「日本文化とイスラーム文化の地平融合を我々は今、目前としている」と書かれていましたが、現代日本で自分自身がイスラーム・タウヒードを深く理解しようとする過程において、自分の中で、自分なりにこの地平融合を追いかける(何かしらの理解が得られるかどうかはわかりませんが)ことが大きな意味を持つという感覚を持ちました。自分がいる場所(時間・空間)とイスラームをしっかり繋げて了解していく作業になるかも知れません。

ان شاء الله

「アッラー」の項では、「宇宙に神はいない」「神はどこにも存在しない」というところから話しが始まり、「神と宇宙の根本的乖離」がイスラーム神学の基本前提であることが示されます。世界/宇宙の内部に神なる存在を立てず、それを否定していることが、ムスリムになる直前に、イスラームが正しい宗教であると私が確信した根拠の1つだったと思います。

この本のさまざまなトピックを見ていくと、イスラームについて考えることは、自分がいるこの世界(時間・空間の両者を含む)について考えることと同じだということに気づかされます。現代日本(と限定することはないかも知れません)とイスラームの間にあるヴェールの存在を認め、その困難さを引き受けつつその先へ進もうとすること、そのことが自分と世界(今いるこの世界を外側から見る)を知っていくということだと思います。

世界を離れてイスラームがどこかにあるわけではない。イスラームとは世界の姿であり、神を知る者にとって、世界と己は一つである。結局は、世界を知ること、己を知ることを擱いてイスラームの理解は存在しない。──中田考『イスラームの論理』p.294

この本を読んで興味を持ち、永井先生の著書も発注しました。困難ではありますが、自分にできる範囲で、イスラームを世界から切り離して対象化する方向ではなく、自分のいる場所(空間・時間)から地続きの世界(その外側をも含む/イスラーム)をもっと知っていきたいと思います。

アラビア語を勉強しないとなぁ…。

ان شاء الله

『クルアーン入門』を読了──無知の知を知ることが入門にふさわしい!?

.السلام عليكم

.عيد مبارك

『クルアーン入門』と『イスラーム入門』

ちょうどラマダーンに入った頃、Twitterで『クルアーン入門』という本が出版されたのを知り、取り寄せて読んでみました。

500ページほどの分厚い本でしたが、平易に書かれており、すらすらと読むことができました。

イスラーム入信前から作品社『日亜対訳クルアーン』を読み、入信後はプレゼントしていただいた日本ムスリム協会『聖クルアーン』を読み、ラマダーン月に入ってから再び作品社『日亜対訳クルアーン』を読み進めているというタイミングでした。

デッサンで線を重ねるように、本当に少しずつ少しずつ、何かがぼんやりと見えてくる感覚はありましたが、とても「何かが分かった」という段階には届き得ていませんでした。

読めば読むほど「こんなことが書いてあるとは前回気がつかなかった」という内容に出会い、その間の自分の経験や世界で起きていること、読んだ本で得た知識などと関連付けられ、新たな像のようなものが見え隠れするような感覚です。

最初に読んだ時には何かが分かったかのように錯覚していましたが…。

クルアーンを読む上で、

  1. クルアーンはアッラーの言葉である
  2. クルアーンはアラビア語で書かれている
  3. クルアーン解釈には多かれ少なかれ人間の理性による思考が入り込む

という3つの認識があり、3.はさらに、「他者による思考」と「自分による思考」に分割できると考えています。

クルアーンを読み違えるとすれば、それは3.の段階においてであり、理想を言えば、アラビア語(それは日本語や英語などとの一対一対応の翻訳ではなく、亜亜辞書・イスラーム知識の概念世界から獲得されたアラビア語)を学び、原文と複数の解釈・翻訳を切り離して後者をできるだけ客観・相対化しつつ、参照していくということが求められるでしょう。

途方もなく感じられます。

ただアッラーはわれわれのために易しくしてくださっていること、無理なことは背負わされないということも知っているので、できる限りの努力をしつつ、読み込んでいきたいと考えています。

.انشاء الله

そんなスタンスでクルアーンを読んでいる最中に、『クルアーン入門』が自宅に届きました。

少し前に読んだ『クルアーンを読む』始め、イスラームに関する本を数冊読んで学んだことを復習しつつ、クルアーン解釈の方法の多様性などに圧倒されました。

もともと先達によるクルアーン解釈やクルアーンが啓示された契機の知識には慎重に距離を置くスタンスです。

信憑性の高いものだけを、鵜呑みにすることなく役立ちうる知識としてストックしていくものの、それらはアッラーの言葉ではなく、預言者の言葉でもありません。

史実と言われるものさえ、ある時代のある人間(たち)が、ある立場からある出来事を定義づけているに過ぎません。

100%の正しさが保障されることは現世においてはあり得ないことであり、与えられた能力・環境・情報などを駆使し、できる限りの解釈をし、あとは審判の日の主宰者であるアッラーに委ねる以外に選択肢はありません

ただ今回、クルアーン解釈や啓示の契機などに自分があまりにも無知であったことに気がつき、また、自分の知っている範囲の外側にどれだけ膨大な情報があるのかという一端に触れ、圧倒されました。

また同時に、啓示の契機や多様な解釈に触れることで、よりクルアーンについて理解を深める契機が得られることも感じました。

常に自分の知識の外側と向き合う必要があり、常に「わからない」状態で読み続ける必要があり、「わかった」というごまかしに陥らないことが大切とも感じました。

『クルアーン入門』を読み始める前に、過去に読んだ『イスラーム入門』も読み返しましたが、この本の序文で書かれていることに常に立ち返り、傲慢な自意識に惑わされることなく、今後もイスラームについて学んでいきたいと思いました。

ムスリムであることと、イスラームを理解していることはイコールではありません。ムスリムであるからといって、イスラームの教えを正しく体現しているとは限らず、ましてやイスラームを体現していることにはなりません。誤りを侵さずイスラームを正しく知る無謬な存在は預言者だけであるというのがスンナ派の合意事項です。

…私たちに本当にイスラームが理解できる、と思うのは間違いです。私たちは自分が理解できることを理解するだけなのです。そしてそれで構わないのです。

──中田考『イスラーム入門』(序)

『クルアーン入門』にも『イスラーム入門』にもタイトルに「入門」という言葉が使われていますが、「わからない」ということを知り、「わからない(完全にわかることはありえない)」ことを前提とした上で、学び続けることが必要であると感じ、それこそが自分にとっての「入門」の意味であると思いました。

.الحمد لله

どのようにムスリム(イスラーム教徒)になったのか?

モスクの壁

私がムスリムになった経緯をまとめてみたい

アルハンブラ宮殿

.بسم الله الرحمن الرحيم

私はムスリム(イスラーム教徒)です。2017年5月にムスリムになりました。

実は私の住む長野県松本市のすぐ近く、塩尻市に最近新しいモスクができ、2週間前から塩尻のモスクに礼拝に行っています。

これまでは坂城町にあるモスクに通っていたのですが、今後は塩尻のモスクに通うことになりました。

2週間前に初めて塩尻のモスクに行った際、改めてパキスタン人の方々やインドネシア人の方々に自己紹介をしました。

その際、「なぜイスラームに入ったのか?」という質問を受け、答えました。

改めて自分がイスラームに入った理由を考えてみると、「多くのきっかけに運ばれてきた」という感覚が強いです。

今後も「なぜイスラームに入ったのか?」と訊かれる機会がありそうですし、自分自身でも整理がついていなかったので、考えつつまとめてみようと思います。

なぜムスリムになった?

「なぜイスラームに入った?」と訊かれ、さまざまなきっかけや経緯を話したことはあるものの、「なぜ」という部分については答えたことがないことに改めて気がつきました。

「どのように」については答えられますが、「なぜ」という問いに答えることは難しいです。

「〜〜するため」、「〜〜だと思ったから」という説明をしてしまうと、たくさんの大切なことがそぎ落とされてしまう感覚があります。

なぜ私がムスリムになったのか?──アッラーのみぞ知る、です。

なったというより気がついた!?

ムスリムに「なった」というよりは、自分がもともとムスリムだったことに「気がついた」という方が近いかも知れません。

保育園の頃から、自分が見ている世界と、周囲の人たちと共有しあえる世界とのギャップを感じていました。

「周囲の人たちには真実の世界が見えないんだ」という感覚を強く持っていました。

その感覚は小学校、中学校と進むにつれて薄れていきましたが、周囲と共有される「現実」や社会というものへの違和感として残り続けました。

今振り返ってみると、イスラームを知らない人たちが頭の中で作り出したイデオロギーになじめないのは自然のことだったように思えます。

国家、社会、権威、金銭的価値、人々が語る「正しさ」、「偉い人」…これらは知識や経験、能力に限界のある人間が作り出したものに過ぎません(これらがアンデルセンのいう「皇帝の新しい着物」(通称『裸の王様』)であり、イスラームのいう「偶像」だったことを後で知ります)。

それらに従うということ、つまり自分の魂をそれらに預け、支配されることに違和感を覚えていたように思えます。

シャハーダするまでの経緯

太陽とモスク

「なぜ」については答えは出せないので、「どのように」に話をすり替えたいと思います。

私は今年の5月8日の夜に自宅でアッラーにシャハーダし、12日に坂城町のモスクでシャハーダを行いました。シャハーダはイスラームに入るために必要なことです。

シャハーダとは

シャハーダは、「信仰告白」と日本語に訳されます。

「アッラーのほかに崇拝に値するものはなく、ムハンマドはアッラーの使者である」という内容をアラビア語で唱えます。

アッラーに向かって、続いてモスクでムスリムの方々の前でシャハーダすることで、改めて私はムスリムとなりました。

キリスト教会に通っていたこともあった

教会

実は以前、キリスト教会に通っていたこともありました。2011年のことです。自分の限界や人間関係、恋愛のうまくいかなさなどに悩んでいました。

そしてすべてのうまくいかなさの根っこには、「他者に完全性を求めていること」があると感づいていました。

人間には限界がある。完璧な人などいない。誰も自分のことを100%わかって受け容れてくれるなどということはない。それを求めてしまうことがすべてをうまくいかなくしている──と感じていました。

とはいえ、「そう理解した」だけでは何も変わりませんでした。

自分を100%わかって受け容れてくれる完全な存在──つまり神を求めたいという気持ちになりました。

しかし、今思えばこれは本当の信仰心ではありません。

私は神の存在を信じていたわけではなく、ただ自分をうまくコントロールするための道具として「神」を無理矢理信じ込み、頼ろうとしていただけでした。

日曜日にカトリック教会のミサに参加しました。親切なイラク人のクリスチャンと知り合いました。そしてクリスチャンになろうと思い、キリスト教講座に通います。

『旧約聖書』を読み、居眠りをしながら神父さんの解説を聞いていた記憶があります。

しかし、途中で教会に行くのをやめます。もともと信仰心がなかったので、宗教が自分の最上位にはなっていませんでした。

転職することになり、環境が変わったことで悩みに一旦蓋がされ、「無理に信じようとしたけど無理だった」無神論者に戻りました。

ただその時、キリスト教会について違和感を覚えていたことも記憶しています。

神を信仰しているのになぜ直接神に祈らずにイエス・キリストや聖母マリアに祈るのか?

『新約聖書』の福音書のどこにもイエス・キリストが神だという納得のいく根拠がないのになぜ三位一体説などというものが出てくるのか?

これらは宗教というよりも政治的にでっち上げられた物語ではないのか?

無心に祈っている一般信者が信仰心が強く、やたら理屈で納得や説明しようとする人たちは不信心なのではないか?──などなどです。

2016年冬、「生きる意味」について考える

本

昨年2016年の冬、生きる意味について考えることになりました。

母方の祖父が弱っており(今年の5月に亡くなりました)、「老人が苦しみながら生きているとしたら、ただの虐待じゃないか?」、「苦しんでまで生きる意味って何だ?」、「老人自身が自分で自分の生き方や死に方を判断できない──つまり自分の人生の基準となるものさしを見つけていない場合が多いのではないか?」など、さまざまなことを考え、モヤモヤとしていました。

同時に、自分自身についても同じでした。

お金を稼ぐ、結婚をする、家庭を作る、社会的に承認される、欲を満たす……このようなことは生き続けるモチベーションにはなりえないと感じました。

また、これらを生きるモチベーションにすることは、結局他の誰かに相互依存・相互従属することに繋がるようにも思えました。

最終、どこに行き着くのか?──他人に迷惑をかけながら、ただ長生きをして自分の欲を満たし続ける──そのような生き方は無期懲役と変わらないな、と思いました。

しかも、「生き続ける」ことはある種の人にとってはとても負担になります。

今、自殺が問題となっており、「自殺対策」という言葉も目に付きますが、その時期、私も自殺について調べました。

いろいろな意見を見ましたが、自殺をしないように説得する人たちの言っていることがあまりにも薄っぺらく、何も分からない人の戯れ言のようにしか感じられませんでした。

「自分の魂・人格を棄てて社会に従属し、生命を存続させ続けろ」という脅迫を感じました。

『ヨブ記』を読む

経緯は詳しく覚えていませんが、『旧約聖書』の『ヨブ記』を読もうと思い、読みました。

ヨブは神の教えに忠実な人でしたが、サタンはヨブの信仰心の動機を疑い(信仰することで財が得られるから信仰しているだけではないのか)、ヨブの信仰心を試すためにヨブから財を取り上げ信仰心を試そうとします。

神もこれを許可しました。

ヨブは財産や大切な人たちを奪われ、自分自身もひどい病に冒されますが、それでも神を信仰し続けました。

その後、ヨブのもとを訪れた友人たちとの問答、神との問答が続きます。

ヨブは信仰心の強い人でしたが、サタンに試され、いわゆる絶望的な状態に追い込まれます。

このヨブの試練から、「生きる意味」について何かヒントが得られるのではないかと思いましたが、私には良い答えを引き出すことはできませんでした。

この時期、『旧約聖書』のほか『新約聖書』、『クルアーン』も電子書籍で読みかじりました。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読む

『ヨブ記』が作中に登場する小説として、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みました。

この作品の「大審問官」という項は、よく哲学的な本などで取り上げられていることもあり、興味がありました。

ドストエフスキーの作品は、アラベスクのように織りなされる複雑怪奇な人間関係や運命、不完全な人間をリアルに描いていて感動しました。

しかし、文学作品として感動したものの、「生きる意味」ということへのヒントは得られませんでした。

小説を書くことからスピリチュアルへ

同じ時期、自分でも小説を書いていました。思いついたことをどんどん繋げて小説を書いていくと、何やら意味深な問題がいくつも持ち上がってきます。

また、不思議な偶然が相次いで起こります。

自分の小説の登場人物にふと思いついた名前(非常に珍しい名前)をつけ、気になった小説の本を開くと同じ登場人物名が目に付きます。

外出先でふと目の前のマンションを見上げると、マンション名がその登場人物の名前であることに気がつきます。

小説にイスラーム系の人が登場した矢先、駅でエジプト人のムスリムの方に道を尋ねられます。

前々から薄々感じていたことではありますが、自分が何かに遠隔操作され、どこかに導かれているということをどんどん確信していきます。

「スピリチュアルな情報は何が本当で何が嘘か判断できない」と考え、距離を置こうと考えていましたが、「自分の創造性を活かす」という一見非スピリチュアルな本を開くと、中にスピリチュアルなことが書かれており、スピリチュアルに気持ちが向かいます。

スピリチュアルを信じるか信じないかに関係なく、書かれている内容に納得がいくことに引きつけられました。

生きる意味や価値が見いだせず、閉塞感と虚無感漂う暗闇の世界に再び光が差し込んできたように思えました。

31歳の誕生日に感じたこと

お皿の上のケーキとフォーク

4月に31歳の誕生日を迎えました。自分が生まれたときのことを家族から聞くと、今の自分のあり方にとても納得がいきました。

私は小児仮死で生まれ、息を吹き返した後、保育器の中に入っていました。それが私にとって、この世界との出会いでした。

多くの人は、家族や周囲の人と関わる中で「世界とはこういうものだ」ということに目覚めていくのかも知れません。

しかし私の場合、他の人を介在させずに直接世界を見てしまったように思えます。

その世界が自分にとって真実の姿であり、後から教え込まれた世界観は他人の作ったフィクションのようにしか思えていなかったことを自覚しました。

そして私が世界と初めて向き合ったとき、そこには私だけではなく、誰かが存在していたことを感じました。

そしてその誰かはいつも私の人生に寄り添い、見守り続けていることも感じました。

ライティングの仕事でイスラム文化を紹介

2017年に、ライティングの仕事を始めました。たまたま「イスラム文化紹介」記事の仕事を見つけ、受注しました。

イスラームについてインターネットで検索し、情報を集めていく過程で、「信憑性のない雑な情報が溢れている」という印象を持ちました。

ライティングを通して「正確な情報だけを書きたい」と思うようになり、いつしかインターネット上の雑な情報に対して「そうじゃないんだ」と憤る自分がいました。

駅の書店で『クルアーン』に出会う

書棚に並んだ本

そんなある日、駅で時間があったのでたまたま書店に立ち寄ったところ、『日亜対訳クルアーン』が目に付きます。

以前は電子書籍で中途半端に読んだだけでしたが、しっかりとしたハードカバーの本で読み込んでみたいと思いました。

監修者の中田考先生もムスリムであり、スマホで調べたAmazonのレビューも良かったので、購入しました。以降、時間があれば『クルアーン』を読むようになりました。

インターネット上でムスリマ(女性イスラーム教徒)さんにシャハーダを教わる

いつの間にかインターネット上で礼拝の仕方やウドゥーの仕方(身の清め方)などを調べ、少しずつ実践するようになっていました。

イスラームに関する海外サイトで外国人のムスリマさんにイスラームに関する質問をし、対話したところ、「あなたは既に中身がムスリムですね」と言われ、自分でも納得しました。

そのムスリマさんがシャハーダの言葉を教えてくださり、自分の部屋でアッラーにシャハーダを行いました。

坂城町のモスクへ

シャハーダを手伝ってくださったムスリマさんたちの紹介で、長野県にもモスクがあることを知ります。5月12日の金曜日、初めてモスクを訪れました。

そこにいらっしゃたのはほとんどパキスタン人の方々で、パキスタン人ムスリムの方々に囲まれる中、イマームさんに導かれつつシャハーダを行いました。

イスラームに入って変わったこと

港を歩くムスリムの人たち

私は現在、イスラームについて初歩的な勉強をしている段階です。ムスリムとして未熟ではありますが、イスラームに入って良かったという実感は日々強くなっています。

「イスラームに入って変わったこと」や「良かったこと」、「気づき」、「見方が変わったこと」などは、また改めてまとめてみたいと思います。

長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

アッラーの平安と慈悲があなたに訪れますように。

.السلام عليكم ورحمة الله