先日、バルザックの「サラジーヌ」(芳川泰久訳)という作品を読みました。文学作品として楽しむというよりも、哲学的?に興味深いテーマを扱っている短編というふうに読めました。ロラン・バルトが『S/Z: バルザック「サラジーヌ」の構造分析』を書いているようですが、今の時点で手に取ろうという気持ちはあまり起こりません。
以下、内容のネタバレを含みますので未読の方は読まれるかどうか自己判断でお願いします。
文学作品としてのあらすじというよりも、考察の材料として興味深い点を抜き出して整理します。大雑把で不正確な整理です。(部分的なセリフや表現の引用元は、全てバルザック作/芳川泰久訳『サラジーヌ他三篇』2012年、岩波文庫)
- 登場人物サラジーヌは、若い彫刻家のフランス人男性
- 彼は22歳のとき、彫刻大賞を受賞し、イタリア留学のチャンスを掴む
- 留学先のイタリアにて、劇場の前に人が集まっているのに興味を持つ。初めて劇場に入り、音楽を聴く
- そこに、ザンビネッラという歌姫が登場
- サラジーヌは、ザンビネッラに、自分が求めていた理想の女性美を見出す
(これまでは複数の女性から部分的に美しさをとってきて、それを合成して彫刻のモデルとしていた) - サラジーヌはザンビネッラに夢中になり、近づく機会に恵まれ、愛を告白するも、「わたしを愛してはいけない」と言われる
- 友人に音楽会に誘われ、そこでザンビネッラも歌うという情報を入手し、参加
- 音楽会にて、男装して歌うザンビネッラを目にする
- 近くにいた貴族に、なぜザンビネッラが男装しているのかを尋ねたところ、自分が理想の女性として夢中になっていたザンビネッラが男性であったことが判明
- サラジーヌはその事実を受け入れず、友人のも協力してもらい、ザンビネッラを誘拐
- サラジーヌはザンビネッラに、「本当のことを言ってくれ」「女なのか?・・・」と問い詰め、「ああ、お前は女なのだ!」と逆上して叫ぶ
- 「・・・許して!」と答えるザンビネッラに、サラジーヌは剣を抜いて「お前を殺さなければならない」と迫る
- その後のサラジーヌの言葉
「愛するとか、愛されるというのは、おれにとってもおまえにとっても、これからは意味の空疎な言葉なのだ。現実の女を見ては、たえずこのおれはこの想像上の女のことを思うだろう」「・・・お前以外のすべての女に、不完全という烙印を押すことだろう!怪物め!お前は何ものにも生命を与えることができない。おまえはおれに対し、この大地から女という女を根絶やしにしてしまったのだ」 - サラジーヌは二つの大粒の涙を流し、ザンビネッラの彫刻=狂おしい恋の記念碑を破壊しようとして狙いをはずし(本人は破壊したと思い込んでいる)、続いてザンビネッラに剣を振り回す
- ザンビネッラの悲鳴を聞きつけて入ってきた三人の男たち(ザンビネッラのスポンサーの枢機卿の遣い)がサラジーヌを刺し、サラジーヌは倒れた
おそらくほかの人たちも同じ解釈をするのでしょうが、わたしにとってもこの物語は、以下のように解釈されました。
- サラジーヌ=男性一般
- ザンビネッラ=(個々の)男性にとっての理想の女性像(現実の女性そのものではない)
- この理想像に執着することで、最後に男性は、女性のいない世界(理想の女性は現実には存在しておらず、現実に存在する女性は常に不完全な女性でしかないということになってしまう)に立たされることになる
この、「男性にとっての理想の女性像」というのが、男性のナルシシズムとどう関わっているのか、精神分析的な観点から興味があります(わたしはフロイトの『精神分析入門』『続・精神分析入門』を邦訳で雑に読んだだけですので、まだはっきりとはつかめていません)。男性のナルシシズムは、別の複数の点からも、理解を深めておきたい対象の1つです。
この物語は、男性の思考のなかで理想化された女性は、男性による男性のための男性思考内での存在でしかなく、男性の思考の中には現実の女性が不在であるということを示しているように思えます。
ジャック・ラカンは、「女は存在しない」という言葉を残しており、わたしのなかでは「サラジーヌ」はこの言葉とリンクしています(ラカンのこの言葉については、学生時代にエリザベス・ライトの『ラカンとポストフェミニズム』の邦訳を読み、そのときだけわかったような気がしただけ。)
今、男性であるわたしにとって一番身近な人は妻であり、娘です。
わたしにとってはムスリムになり、イスラームの教えに従おう(アッラーに委ねよう)、というところから、この理想像の束縛が解かれ、現実の女性との幸せな関係がもたらされたと思っています。
