虚無のなかに響くか細い希望の声──中田考『イスラームから見た西洋哲学』を読んで

『イスラームから見た西洋哲学』 イスラーム

中田考先生の新著『イスラームから見た西洋哲学』を昨晩、読み終えました。

学生時代に一応哲学を専攻しており(哲学を専攻していたと言えるほど、まともに勉強できているとは思えませんが・・・)、もともと「宗教」にそこまで興味関心を持っていたわけでもなくイスラームに導かれたわたしにとって、以前から「こんな本が出版されて欲しい。読んでみたい」と思っていました。

わたしは自分や世界がどうなっているのか、いつの頃からか考えており、その過程のどこまでが哲学に属し、どこからがイスラーム(宗教)に属するのか、といった線引きは本質的にはあり得ないというのがわたしの実感です。

ただ問いに対して答えてくれそうなものを本能的に探る過程があり、そのなかで「よし、イスラームに入信しよう!」という大転換的な出来事があったわけでもなく、ただ道なりに歩いていたら、イスラームと呼ばれる領域に(必然的に)入ったというのが実感に近いです。

見える景色はだいぶ変わりましたが、道それ自体は一本で繋がっており、どこでもドアのようなワープ装置で全く別の場所に飛んだわけではありません。

そんなわたしにとって、イスラーム入信前にわたしが影響を受けた思想とイスラームは、繋がりを持っています。もちろん、両者ともにわたしの理解のフィルターを通したものでしかないわけですが。

これらのつながりを扱ってくれるような本は出ないだろうか、中田先生あたりが書いてくださらないだろうか、と思っていたところ、X(Twitter)でこの本の情報を知り、すぐに注文した次第です。

新書で約230ページ。活字も大きく、さらりと読める本かと思ったら、想像以上に濃厚でした。かなり多くの哲学者の思想のポイントが少ないページ数に要約されて詰め込まれているので、読者のもともと持っている知識量によって読み易さが大きく変わりそうです。

世界史・哲学史の大雑把な知識があり、かつ、取り上げられている何人かの思想に触れたことがある人であれば、より楽しく読めるように思われます。

わたしがこの本を読んで特に印象に残った内容を、メモ書きしておきたいと思います。

  • 自分の問題意識に近い哲学者がいても、それと出会うことなく人生を終えてしまう日本人がいるとしたら、もったいない(わたし自身も、世界で長い間、多くの人々の人生を支えてきたイスラームを知らずに自分や世界、人生について考えるのは不十分・非効率ではないかと思って『クルアーン』を手に取りました)
  • イスラームとキリスト教では、政治と宗教の分離の仕方が全く違う
  • イスラームには「義務」はあるが「権利」はない
    「人を殺してはならない」という命令が守られる(義務)結果、実際には存在しない「生きる権利」がまるで存在しているのと同じ機能が果たされる(義務の反射)
  • 啓蒙思想は表向きには人間の平等を解くが、本質的には理性を持った人間だけが成熟した人間であり、それは西洋の白人であり、それ以外は未熟な者たちであるというアリストテレス奴隷論の系譜にあるパターナリズム
  • イスラームでは、「神がいるかいないか」ではなく、「何を神とするのか」が問題となる
    ギリシャ語の神「テオス(theos)」はいるかいないかを問える客観的存在の概念
    アラビア語の神「イラーフ(ilah)」は「崇拝されるもの」を意味する(崇拝する人間から切り離されて客観的に存在するものではない)。つまり、人間が崇拝するあらゆる対象が神になる。イスラームは、人間は必ず何かを崇拝してそれに隷従する性質を持っていると考える。そのため、人間は誰でも神=イラーフ(崇拝対象)を持っているはずであり、「無神(イラーフ)論」は成立しない。
  • 神がいるという前提で世界を見るとどう解釈できるか?という話に、「神はいません」と言っても、まともな反論・否定になっていない。
  • 学問の生き残りにとって、教育機関・カリキュラムができて経済的・制度的に支えられるかどうかは重要
  • マルクスの疎外論、物象化論は煎じ詰めれば偶像破壊論(わたしも両者は同質の問題を扱っていると思っていました。学生時代にフランクフルト学派のエーリッヒ・フロムに共感)
  • イスラーム経済で一番重要なのは「アドル(正義)」(これはもっと注意深くならないと!)
  • 『新約聖書』の福音書よりも、使徒たちの手紙の方が先に書かれている(知らなかった!わたしは福音書しか読んでいない)
  • ユダヤ教は、女系制になっている。もし男系制にしてしまうと、預言者アブラハム様の長男イシュマエル様(アラブ人の祖先。アブラハム様とエジプト人ハガル様の間に生まれたため、女系制では非ユダヤ人ということになる)がユダヤ人ということになり、アラブ人こそがカナンの地の正当な後継者である本当のユダヤ人ということになってしまう
    (すげぇ話だ!)
  • 自分では正義感だと思い込んでいるものが、実はルサンチマン(自分を迫害する悪人を思い描き、それとの対比で迫害されている側の自分は善人であるとみなす)であるというのはよくあること。
  • フロイト左派の性の解放理論は1960年代にアメリカで流行ったそう
    (日本出身の現代芸術家草間彌生さんがニューヨークでハプニングをおこなっていた時期、ヒッピームーブメント時代とちょうど重なっている!芸術や文学を精神分析的に見てしまうとつまらなくなってしまうが、これらも思想的潮流とリンクして表に出てくる!?面白い!)
  • 自己は、世界と、世界の外との境界に位置する。世界のなかには価値はなく、世界の外の語り得ない神に価値がある
    (以前はよくわからなかったが、今は実感的によくわかる。なぜだろう?)
  • イスラームを嫌ったレヴィ=ストロース
    (今読んでいる別の本でも取り上げられているが、西洋からの上から目線でしか対象が見れていない・・・といったことが書かれていたような・・・)

中田先生はエーリッヒ・フロムから影響を受けたと書かれていますが、わたしも学生時代にフロムの『生きるということ』を読み、「有る(being)/自然のなかで動き回る蝶と遊ぶ」「持つ(having)/蝶を採取して殺し、標本にして所有する」の2つの生活様式の違い、「有る(being)」生活様式が資本主義と相容れないこと、「持つ(having)」生活様式が人間の生き方を病的な状態にしていることを実感しました。

『生きるということ』のなかで読んだのかどうか記憶が定かではありませんが、わたしも資本主義やナショナリズムが偶像崇拝の問題であるという視点をフロムから影響されて持っていたかもしれません。

ニーチェについては、『ツァラトゥストラ』を大学の講義で読んで部分的に共感しつつも、文体に馴染めずに途中で放り出してしまっただけでした。そのニーチェは、ニヒリズムの時代を予言していたそうです。

わたしは哲学的素養がないので、ニヒルの闇の真の恐ろしさを十全に理解できるところまで行けない気がします(良かった!)。

しかし、イスラーム入信直前の自分を振り返ってみると、世界・人生に本当の価値と呼べるものなどあり得ない(あると思っている人たちは洗脳されているだけ)、という冷めた現実認識があり、その直後でイスラームに導かれて救われたという感覚はあります。
どのようにムスリム(イスラーム教徒)になったのか?

わたしが哲学に興味を持ったり、イスラームを求めていた裏側には、ニヒルへの無意識的な気づき・目覚めが、生まれてから育ってくるまでの間にあったのかもしません。そういう意味で、ニヒルはイスラームへの強力な導きとなってくれたと言えるような気がします。

イスラームの最初の教えは「ラー・イラーフ」、すなわち「崇拝すべきもの、価値があるものは存在しない」です。宇宙からすべての価値を剥ぎ取った近代西洋が露呈させたニヒルの闇を直視し、私たちが目にすることができるもの、目に見える世界のどこにも価値も意味も救いも存在しない、という冷徹な事実を認めた者にのみ、ニヒルの彼岸から「ただしアッラーは別である」との暗闇を切り裂く雷鳴のような絶対他者の声が耳に届きます。(p.229)

わたしもそのようにイスラームに導かれた気がします。

ニヒルの闇のなかにあるからこそ、か細くとも(か細いがゆえに!?)届く声のようにも思えます。

الحمد لله رب العلمين

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