福永武彦『草の花』─2回目の読了。個人的な読書経験。

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福永武彦『草の花』

5年ほど前、文学作品をひたすら読んでいた時期があったが、最近はほとんど読まなくなっていた。

去年の1〜2月、堀辰雄の作品を読み、ほかにも文学作品を読みたいという気になって手に取ったのが、福永武彦の『草の花』だった。

福永武彦については名前は知っていたものの(大学の図書館で全集の背表紙を目にして知った)、作品自体はまだ一度も読んだことがなかった。

汐見繁思が後輩の藤木忍への愛に破れた「第一の手帳」に、特に深い共感を覚えた。

数日前、何となくまた文学作品が読みたい気分になり、本棚の手に取りやすい位置にあった『草の花』を選んだ。

去年、一通り読んだあと、もう一度「冬」を読んだほうが良いと思ったまま、放置されていた。

  • 「冬」…サナトリウムでの「私」と汐見のささやかな交流・汐見の孤独な死(30歳)

  • 「第一の手帳」…後輩の藤木忍に深い想いを抱いていた汐見(18歳)・藤木忍の死(忍:19歳)
  • 「第二の手帳」…忍の妹である千枝子に恋する汐見(24歳)
  • 「春」…汐見の2冊の手帳を霊安室で読み終わった「私」。千枝子に手紙を出し、返事が返ってくる(返事の手紙の結びが作品の結びとなっている)

「第一の手帳」では、実際に自分が春のH村に居るかのように、18歳の汐見の感情に、思春期後期の自分の感情が誘発され、重なり合う。ひりひりとした火傷のような感触が、経験としてまだわたしの感情のなかにも確かに残っている。もちろん、実際にわたしが経験した感覚・感情は、作品のような純粋に美しいものではなく、不純で醜く、エゴイスティックな面を多分に抱え込んでいたのだが(作者の福永武彦にしても、そういう部分があったのではないかと推測する)。

美しい魂、それは恐らくは架空であり、今の僕には信じられぬ。しかし当時、藤木に寄せた僕の思慕は、鏡のように彼の美しさを映していた。─福永武彦『草の花』

この小説を読んでいる短い時間、わたしは汐見繁思として、思春期後期の世界を再び訪れる。

最近読んだ吉本隆明の『読書の方法』に次のようなことばがあったことを思い出す。

優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手のもっている世界の縮尺のようなものである。この縮尺には書き手が通り過ぎてきた<山>や<谷>や、宿泊した<土地>や、出遭った人や、思い煩った痕跡などが、すべて豆粒ように小さくなって籠められている。どんな拡大鏡にかけても、この<山>や<谷>や<土地>や<人>は、眼には視えないかも知れない。
(略)
もし、ひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また考え込ませ、ようするにここは文字のひと続きのようにみえても、じつは広場みたいなところだな、と感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。─吉本隆明『読書の方法』

作者の福永武彦がかつて歩き、傷ついた場所。汐見と藤木忍を舟に乗せて浮かべた場所。わたしもその場所に立ち寄り、思春期後期の自分と再会する。

「第二の手帳」では、汐見は藤木忍の妹の千枝子と交際しているが(兄の忍は既に亡くなっている)、2人の間には「信仰」という大きな壁がある。

「…あなたの言う千枝ちゃんは、あなたの頭の中だけに住んでいる人よ、このあたしのことじゃない」
「あなたは夢を見ている人なのよ。ええそうよ。昔あなたは、兄ちゃんを好きだった頃にも夢を見ていらした。あたし兄ちゃんの言った言葉が忘れられないわ、汐見さんは夢を見てる、けれど僕には見られないって。あたしもそうなのよ。同胞ってそういうものなのね」─福永武彦『草の花』

振り返ってみるとわたし自身も20代の頃、同じようなことを複数の相手から言われた経験があった。その相手同士はお互いに知り合いではないのに、まるで打ち合わせでもしていたかのように…。

解消できない絶望的なズレ。自分はずっと一人で歩き続けることが必然のようにしか思えなかった時期。

自分が感じている孤独感と、そこから渇望するなにか。それは生身の人間に求めるには大きすぎて、重すぎて、残酷すぎて、不可能であると感じ、わたしは神との繋がりを求め始めた。

わたしは31歳のときにイスラームに入信した。汐見が亡くなった年齢+1歳だ。そして汐見の「第二の手帳」を読むとき、わたしは神を信仰できない汐見のサイドではなく、不十分かつ不器用ながらも信仰の道を歩もうとしている千枝子のサイドに立って読んでいることになる。しかしもちろん、汐見への共感もある。自分の中が二分割されているような感覚。

汐見は「神」と「自分の孤独」を対立させ、後者をとると言う。しかし、千枝子/わたしは、「孤独だからこそ神を求めるのじゃなくて?」という風に対立させない。このことが、わたしと汐見の大きな分岐点のように感じられた。

わたしも恐らく汐見と同様、わたし自身の孤独を愛していると言えると思う。しかしそのことは、わたしを信仰から遠ざけたり、妻から遠ざけたりするものにはなっていないと思う。

わたしのなかに汐見は、生きている。千枝子も生きている。統合されて。

作品中、汐見が死んだのが30歳のとき。わたしは31歳でイスラームに入信し、それまで引きずっていた何らかの重たいものから解放され、妻と仲良く過ごす日常にある。

この作品はわたしにとって、自分の人生そのものと深くリンクしてしか読めない。

作者の福永武彦の人生・人生観にも興味が湧く。彼は自分の孤独とどう関わって生き、死んでいったのか。

昨年、『草の花』を読んだあと、『忘却の河』を購入したのだが、途中まで読んで放置されてしまっている。主人公の年齢が高いことから、今の自分にはまだ早いと感じ、閉じてしまったのだと記憶している。

昨日、祖母の誕生日が近いので実家に帰ったのだが、実家に『愛の試み』が届いていた(事情があって、郵送物を実家に転送していた)。

実家に『愛の試み』が届いていた。

文学からは離れていたのだが、自分にとってとても大切なもののように思えてきた。たまには忙しい生活のなかで少し立ち止まり、文学の世界に入り込む時間もつくりたい。

このブログは昨日投稿するはずだったのだが、今日にずれ込んでしまった。

Twitterで、今日が福永武彦の誕生日だと知った。ちょっと不思議な気分。

『草の花』という、自分にとって特別な文学作品との出会いに感謝。この作品を残してくださった福永武彦先生に感謝。

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