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予防医療の大切さに目を開かれる本:堀江貴文さん『健康の結論』

一昨日、健康診断の案内が自宅に届いていました。最後に健康診断を受けたのは2016年(3年前)。健康にあまり気を使う方ではないですが、こういう案内を見ていると、ふと健康が気になるものです。案内を開いてみると、胃がんの検査がバリウム検査とあり、これだけは避けて他の健康診断は受けようと思い、早速申し込みました。バリウムを飲むことに生理的抵抗感があると同時に、その効果やリスクについていろいろな考え・意見を目にしていたこともあります。大学生のとき、もしくは社会人になってから、バリウム検査を受けたような気がしなくもないのですが、よく覚えていません。

そんなとき、Twitterでフォローしているえらいてんちょうさんの下記ツイートを目にしました。

胃がんとピロリ菌の関係などもネットで目にしたことがあり、読みやすそうな本だったので、すぐにKindleでダウンロードしました。予想していた通り読みやすい本で、自分や周囲の人の健康管理について知っておいた方が良い大切な内容が詰まっていました。

  • メンタル管理や自殺予防について
  • 心臓突然死を防ぐためのAEDの大切さ
  • がんを「予防する」ことの大切さ(ピロリ菌除去・内視鏡検査)
  • HPVワクチンの大切さ
  • 脳卒中による死を予防するために知っておくべき症状
  • 歯周病予防は歯だけではなく、全身の健康を守るために必要 など

健康に普段は気を使わず、不調になったら医者(専門家)に頼る、ということになりがちですが、素人としてこれらの知識を持っておくことで、自分や周囲の人の健康や命を守るのに役立つと感じました。特に緊急の場合には、ちょっとした知識があるかないかで生存確率が大きく変わってしまうということも…。事前にちょっとした知識があるかどうかで、大きなリスクを避けられる可能性があるというのは勉強になりました。

こういった情報がわかりやすく書かれ、普及されていくのはとても良いことだと思います。興味のある方は読んでみてください。

堀江貴文『健康の結論』2018, KADOKAWA

 

 

 

イスラーム国について知るための必読書:中田考先生『イスラーム国訪問記』

中田考先生の『イスラーム国訪問記』を読み終えました。これまでイスラーム国については新聞などで報じられる断片的な情報にしか触れたことがなく、中田先生が書かれた他の本でほんの少しだけ知っていた程度です。イスラーム国がシリアとイラクの一部地域を一定期間実効支配したことは世界的/歴史的大事件であり、詳しく知りたいと思う人は多いのではないでしょうか。

しかし、私たちが得られるイスラーム国の情報のほとんどは、イスラームの知識の無い人の発言もしくはイスラームの知識はあっても現地に足を運んだことのない人の発言が多いという印象でした。そんな中、この本は現地に足を運んだイスラーム学者によって書かれたものであり、ノンムスリム(非イスラーム教徒)の日本人ジャーナリストの訪問記も含めてまとめられています。イスラーム国内で暮らすキリスト教徒へのインタビューも含まれ、カラー写真も掲載されていました。

イスラーム国の支配についてのアラビア語とイスラーム学を修めたイスラーム地域研究者の客観的な報告は一つも存在せず、本書は唯一の例外となる。イスラーム国は二〇一七年にはイラクの本拠地モスルとシリアの本拠地ラッカを失ったため、本書はイスラーム国の支配と国家運営の実態の一端を伝える貴重な同時代資料としてその価値を増している。──中田考『イスラーム国訪問記』

間違いなく、私たちが触れることのできるイスラーム国についての貴重な資料のはずです。

これまで、「彼らはイスラーム教徒ではない」とイスラーム国を批判する声は何度か耳にしましたが、違和感を覚えることが少なくありませんでした。タクフィールの問題(イスラーム教徒が、他の誰かを「不信仰者」と断定することを「タクフィール」と言い、スンナ派では避けるべきのもとされています。このタクフィールこそまさに、過激派と呼ばれる人々が他のイスラーム教徒に行っていることだとも言われます。また、ある行為がイスラーム的に正しいか間違っているかという問題と、行為者がイスラーム教徒であるかそうでないかは別の問題です。これらについて、松山洋平『イスラーム思想を読みとく』に詳しく書かれています)もあるのですが、そもそも「イスラーム国について無知である」上で「断定している」ということに強い違和感がありました。

ともかく、多くのバイアスがかかった可能性のある二次情報・三次情報などではなく、実際に現地に足を運んだ方のリアルな記録からイスラーム国について少しでも知ってみたいという思いで本を手に取りました。

この本ではイスラーム国の人々の生活の一端を知ることができ、また、イスラーム法上の異教徒の扱いについてまとめられており、実際に現地に暮らすアルメニア人クリスチャンへのインタビューが収録されていたのもとても貴重なことでした。インタビューの中には、不満がないわけではないけれども、イスラーム国によって良い(イスラーム国による支配以前と変わらないか、以前よりも良い)扱いを受けているという声もありました。

現地での見聞や現地に暮らす異教徒の声、イスラーム国の成立過程やその意義についてもまとめられているため、イスラーム国について知りたいという方には必読の本だと思います。

食事の写真も掲載されていましたが、美味しそうです。イラク戦争が始まる直前に読んだ『イラクの小さな橋を渡って』に、食べ物が美味しいという記述があったことをふと思い出しました。

※現在予約営業中【カユ マニス ハラル カフェ】マレーシア家庭料理のお店(ハラル/礼拝室有り)が松本市にオープン!

※Kayu Manis Halal Caféは、現在予約のみの営業となっています。

ご利用されたい方は事前にお問い合わせ・ご予約をお願いいたします。

通常営業の再開についてはこのブログでもお知らせする予定ですが、店舗のFacebookやInstagramでのご確認をお願いします。

Kayu Manis Halal Café is temporarily RESERVATION ONLY.

Please check the link for update.

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السلام عليكم و رحمه الله و بركاته

الحمد لله

4/6(土)に、Kayu Manis Halal Café(カユ マニス ハラル カフェ/長野県松本市中央)がオープンしました。マレーシア出身のご夫婦による、マレーシア家庭料理のお店です。料理はハラル(イスラーム教徒が食べることができる)で、礼拝室(サラート/ナマーズ/お祈りをする場所)もあります。これまで松本市にはハラルのお店がなく(一時期ありましたが、なくなりました)、イスラーム教徒が落ち着いて礼拝できるスペースも見つけるのが困難でした。このようなお店が松本市にできたことはとても嬉しいことであり、松本市に足を運ばれた多くのムスリムの方にもぜひ知っていただきたいと思いました。

もちろん、イスラーム教徒だけのためのお店ではありません。昨日もイスラーム教徒ではない日本人の女性の方が数人でいらっしゃり、ゆっくりとお食事をされていきました。マレーシア料理を食べられるお店自体少ないので、ぜひ多くの方に楽しんで欲しいです。

松本駅からお店までの道順や、私が実際にいただいたお料理などを簡単に紹介します。

道順:松本駅からカユ マニス ハラル カフェへ!(The Way to Kayu Manis Halal Café from Matsumoto-station)

松本駅で電車を降りたら、そのまま改札に向かいます。

改札を抜けたら、右手のお城口(東口/East Exit)から外に出ましょう。

外に出たら、正面の大通りを真っ直ぐに進んでいきます。Please go straight on the main street.

 

西村時計店の角を左に曲がります。Please turn left at the corner of the sign board”西村時計店”.

左折したら、そのまま直進します。Then, please go straight.

しばらく進むと、右手に看板があります。The Café is on your right.

到着!

いざ店内へ!

店内は落ち着きがあり、アットホームな雰囲気です。撮影日(4/6)にはお客さんがたくさんいらっしゃったので、全体の写真はまた機会があればアップします。ان شاء الله

マレーシアで有名な紅茶が置かれていました。

イスラーム教徒が礼拝前に体を清める(ウドゥーをする)スペース。

礼拝室の入り口。中の様子も、また機会があればアップします。ان شاء الله

ゆったりくつろいで食事♪

この日(4/6)は、Mee Kari(ミーカリー)とコーヒーのセットをいただきました!

辛いとうかがいましたが、私の場合は、すでに舌がマレーシア/インドネシア/パキスタン料理になれたせいか、あまり辛く感じませんでした。

ランチセットのメニューは他にもありましたが、どれも1,000円前後でお手軽に食べられます。

この日はマレーシアからの留学生の方がケーキを作ったそうで、そのケーキもいただきました。

さらに、バナナをココナッツミルクで煮込んだデザートも!

身近でハラルな料理が食べられるのは、とてもありがたいです。プレオープンから足を運んでおり、すでに常連化しています。

また機会があれば、引き続きこのお店の情報をアップしていきます。

ان شاء الله

ぜひ皆様も足を運んでみてください。

السلام عليكم و رحمه الله و بركاته


Kayu Manis Halal Café(カユ マニス ハラル カフェ

長野県松本市中央3丁目6-4

Tel : 0263-87-8122

e-mail : kayumanishalalcafe@gmail.com

営業時間:11時30分〜16時30分

定休日:火曜日・第3日曜日

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知っておいた方がいい生存戦略の指南書:えらいてんちょうさん『しょぼい起業で生きていく』

遅ればせながら、今大注目されている、えらいてんちょうさん(@eraitencho)の『しょぼい起業で生きていく』を読み終えました。この本で示されている「しょぼい起業」という考え方を知っておくことは、「こういう生き方もあるんだ」という大きな安心材料になると思います。

これから就活をしようと考えている大学生、すでに働いている会社員の方、アルバイトをしている方、私のようなフリーランスの方、働いていない方など、どんな方が読んでもヒントが得られる本だと思います。

えらいてんちょうさんのことは1年ちょっと前からTwitterでフォローしていて、「すごく頭の回転の速い人だ」というイメージを勝手に持っていました。そんな賢い人の書いた本が自分の役に立つのか?…と思いつつ手に取りましたが、仕事だけではなく、周囲の人とのつながりや日々の生活まで、いろいろと考えさせられ、役立つノウハウ・考え方が詰まっている本でした。

「とりあえずサラリーマン」という時代の終焉が示され、「しょぼい起業」のノウハウ・考え方が紹介されていきます。実際にえらいてんちょうさんご自身が実践されてきたことであり、リアルな経験とわかりやすい解説で、「しょぼい起業」が自分の身近に感じられるようになっていきます。私などはTwitterも見ていましたので、その内容ともリンクして、すごく現実的なノウハウ・考え方だということが強く感じられました。

「サラリーマン生活がしんどい=落伍者ではない」、「お金を使わなくても楽しいことはたくさんある」、「「店を開くには大金がかかる」は大ウソ」など、「生きるって大変だ」「こうしないと生きていけない、ダメなんだ」という思い込み(=洗脳)が1つ1つ崩されていき、視野が広がっていきます。

ちょうど1年前、私もTwitterで見ていましたが、しょぼい喫茶店さん(@shobokitsu)の例など、「しょぼい起業」が新たな生き方を指南し、選択肢を増やし、実際に人生が変わったという人までいます。「窮屈だ」「生きにくい」と感じている人にとっては、突破口への大きなヒントになるのではないでしょうか。

この本の効用は、具体的なノウハウにとどまらない発想が現実的に示されていて、生きることのハードルが下がってラクになることだと思います。この本を手に取った方が実際に新しいことを始めているという例も、Twitterで目にします。商品として買われて終わるのではなく、本を買ったところから新しい動きが始まっていく、そんな「資本になる本」という、すごくパワフルな本だと思います。


ちなみに、ここ1週間ほど、えらいてんちょうさんのYouTubeTwitter上での動き・発言が面白くて、毎日チェックしています。某サロン、某テレビ番組でのセクハラ批判などなど、とても痛快でした!

台風通過後の諏訪湖・板垣先生・新しい仲間との出会い

台風通過後の今日は、諏訪湖周辺を訪れました。

アズハル大学留学中で、一時帰国中のオサマさん(タジュウィード=クルアーン読誦法を学ばせていただいています)に誘われて、中東・イスラム研究者でいらっしゃる板垣雄三先生のもとを訪れました。ムスリムの仲間との新たな出会いもあり、先生やムスリムの仲間たちから貴重なお話を聞かせていただきました。

الحمد لله

ムスリムとして、自分に何ができるのか・何がしたいのか・何をなすべきか問い、学び、考え、行動していきたいと思いました。

ان شاء الله

久しぶりに自然の美しい風景に包まれ、癒やされました。

(2019年1月20日:編集)

『みんなちがって、みんなダメ』

『みんなちがって、みんなダメ』の表紙とノートパソコン

中田考先生の『みんなちがって、みんなダメ』を読みました。今、生きにくいと思っている人にとって、大きなヒントになる本だと思います。

私自身、いろいろなきっかけがあり、あれこれと考えたり迷ったりし、ムスリムになりました。その過程で整理されていなかったさまざまな出来事について、「ああ、こういうことだったんだ」ととても納得がいきました。

大学時代にエーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んで共感したことなどを思いだし、全てがつながっていることを実感しました。

大きな文字で、わかりやすいことばで、どストレートに書かれています。

▼関連リンク

『クルアーン入門』を読了──無知の知を知ることが入門にふさわしい!?

.السلام عليكم

.عيد مبارك

『クルアーン入門』と『イスラーム入門』

ちょうどラマダーンに入った頃、Twitterで『クルアーン入門』という本が出版されたのを知り、取り寄せて読んでみました。

500ページほどの分厚い本でしたが、平易に書かれており、すらすらと読むことができました。

イスラーム入信前から作品社『日亜対訳クルアーン』を読み、入信後はプレゼントしていただいた日本ムスリム協会『聖クルアーン』を読み、ラマダーン月に入ってから再び作品社『日亜対訳クルアーン』を読み進めているというタイミングでした。

デッサンで線を重ねるように、本当に少しずつ少しずつ、何かがぼんやりと見えてくる感覚はありましたが、とても「何かが分かった」という段階には届き得ていませんでした。

読めば読むほど「こんなことが書いてあるとは前回気がつかなかった」という内容に出会い、その間の自分の経験や世界で起きていること、読んだ本で得た知識などと関連付けられ、新たな像のようなものが見え隠れするような感覚です。

最初に読んだ時には何かが分かったかのように錯覚していましたが…。

クルアーンを読む上で、

  1. クルアーンはアッラーの言葉である
  2. クルアーンはアラビア語で書かれている
  3. クルアーン解釈には多かれ少なかれ人間の理性による思考が入り込む

という3つの認識があり、3.はさらに、「他者による思考」と「自分による思考」に分割できると考えています。

クルアーンを読み違えるとすれば、それは3.の段階においてであり、理想を言えば、アラビア語(それは日本語や英語などとの一対一対応の翻訳ではなく、亜亜辞書・イスラーム知識の概念世界から獲得されたアラビア語)を学び、原文と複数の解釈・翻訳を切り離して後者をできるだけ客観・相対化しつつ、参照していくということが求められるでしょう。

途方もなく感じられます。

ただアッラーはわれわれのために易しくしてくださっていること、無理なことは背負わされないということも知っているので、できる限りの努力をしつつ、読み込んでいきたいと考えています。

.انشاء الله

そんなスタンスでクルアーンを読んでいる最中に、『クルアーン入門』が自宅に届きました。

少し前に読んだ『クルアーンを読む』始め、イスラームに関する本を数冊読んで学んだことを復習しつつ、クルアーン解釈の方法の多様性などに圧倒されました。

もともと先達によるクルアーン解釈やクルアーンが啓示された契機の知識には慎重に距離を置くスタンスです。

信憑性の高いものだけを、鵜呑みにすることなく役立ちうる知識としてストックしていくものの、それらはアッラーの言葉ではなく、預言者の言葉でもありません。

史実と言われるものさえ、ある時代のある人間(たち)が、ある立場からある出来事を定義づけているに過ぎません。

100%の正しさが保障されることは現世においてはあり得ないことであり、与えられた能力・環境・情報などを駆使し、できる限りの解釈をし、あとは審判の日の主宰者であるアッラーに委ねる以外に選択肢はありません

ただ今回、クルアーン解釈や啓示の契機などに自分があまりにも無知であったことに気がつき、また、自分の知っている範囲の外側にどれだけ膨大な情報があるのかという一端に触れ、圧倒されました。

また同時に、啓示の契機や多様な解釈に触れることで、よりクルアーンについて理解を深める契機が得られることも感じました。

常に自分の知識の外側と向き合う必要があり、常に「わからない」状態で読み続ける必要があり、「わかった」というごまかしに陥らないことが大切とも感じました。

『クルアーン入門』を読み始める前に、過去に読んだ『イスラーム入門』も読み返しましたが、この本の序文で書かれていることに常に立ち返り、傲慢な自意識に惑わされることなく、今後もイスラームについて学んでいきたいと思いました。

ムスリムであることと、イスラームを理解していることはイコールではありません。ムスリムであるからといって、イスラームの教えを正しく体現しているとは限らず、ましてやイスラームを体現していることにはなりません。誤りを侵さずイスラームを正しく知る無謬な存在は預言者だけであるというのがスンナ派の合意事項です。

…私たちに本当にイスラームが理解できる、と思うのは間違いです。私たちは自分が理解できることを理解するだけなのです。そしてそれで構わないのです。

──中田考『イスラーム入門』(序)

『クルアーン入門』にも『イスラーム入門』にもタイトルに「入門」という言葉が使われていますが、「わからない」ということを知り、「わからない(完全にわかることはありえない)」ことを前提とした上で、学び続けることが必要であると感じ、それこそが自分にとっての「入門」の意味であると思いました。

.الحمد لله

どのようにムスリム(イスラーム教徒)になったのか?

モスクの壁

私がムスリムになった経緯をまとめてみたい

アルハンブラ宮殿

.بسم الله الرحمن الرحيم

私はムスリム(イスラーム教徒)です。2017年5月にムスリムになりました。

実は私の住む長野県松本市のすぐ近く、塩尻市に最近新しいモスクができ、2週間前から塩尻のモスクに礼拝に行っています。

これまでは坂城町にあるモスクに通っていたのですが、今後は塩尻のモスクに通うことになりました。

2週間前に初めて塩尻のモスクに行った際、改めてパキスタン人の方々やインドネシア人の方々に自己紹介をしました。

その際、「なぜイスラームに入ったのか?」という質問を受け、答えました。

改めて自分がイスラームに入った理由を考えてみると、「多くのきっかけに運ばれてきた」という感覚が強いです。

今後も「なぜイスラームに入ったのか?」と訊かれる機会がありそうですし、自分自身でも整理がついていなかったので、考えつつまとめてみようと思います。

なぜムスリムになった?

「なぜイスラームに入った?」と訊かれ、さまざまなきっかけや経緯を話したことはあるものの、「なぜ」という部分については答えたことがないことに改めて気がつきました。

「どのように」については答えられますが、「なぜ」という問いに答えることは難しいです。

「〜〜するため」、「〜〜だと思ったから」という説明をしてしまうと、たくさんの大切なことがそぎ落とされてしまう感覚があります。

なぜ私がムスリムになったのか?──アッラーのみぞ知る、です。

なったというより気がついた!?

ムスリムに「なった」というよりは、自分がもともとムスリムだったことに「気がついた」という方が近いかも知れません。

保育園の頃から、自分が見ている世界と、周囲の人たちと共有しあえる世界とのギャップを感じていました。

「周囲の人たちには真実の世界が見えないんだ」という感覚を強く持っていました。

その感覚は小学校、中学校と進むにつれて薄れていきましたが、周囲と共有される「現実」や社会というものへの違和感として残り続けました。

今振り返ってみると、イスラームを知らない人たちが頭の中で作り出したイデオロギーになじめないのは自然のことだったように思えます。

国家、社会、権威、金銭的価値、人々が語る「正しさ」、「偉い人」…これらは知識や経験、能力に限界のある人間が作り出したものに過ぎません(これらがアンデルセンのいう「皇帝の新しい着物」(通称『裸の王様』)であり、イスラームのいう「偶像」だったことを後で知ります)。

それらに従うということ、つまり自分の魂をそれらに預け、支配されることに違和感を覚えていたように思えます。

シャハーダするまでの経緯

太陽とモスク

「なぜ」については答えは出せないので、「どのように」に話をすり替えたいと思います。

私は今年の5月8日の夜に自宅でアッラーにシャハーダし、12日に坂城町のモスクでシャハーダを行いました。シャハーダはイスラームに入るために必要なことです。

シャハーダとは

シャハーダは、「信仰告白」と日本語に訳されます。

「アッラーのほかに崇拝に値するものはなく、ムハンマドはアッラーの使者である」という内容をアラビア語で唱えます。

アッラーに向かって、続いてモスクでムスリムの方々の前でシャハーダすることで、改めて私はムスリムとなりました。

キリスト教会に通っていたこともあった

教会

実は以前、キリスト教会に通っていたこともありました。2011年のことです。自分の限界や人間関係、恋愛のうまくいかなさなどに悩んでいました。

そしてすべてのうまくいかなさの根っこには、「他者に完全性を求めていること」があると感づいていました。

人間には限界がある。完璧な人などいない。誰も自分のことを100%わかって受け容れてくれるなどということはない。それを求めてしまうことがすべてをうまくいかなくしている──と感じていました。

とはいえ、「そう理解した」だけでは何も変わりませんでした。

自分を100%わかって受け容れてくれる完全な存在──つまり神を求めたいという気持ちになりました。

しかし、今思えばこれは本当の信仰心ではありません。

私は神の存在を信じていたわけではなく、ただ自分をうまくコントロールするための道具として「神」を無理矢理信じ込み、頼ろうとしていただけでした。

日曜日にカトリック教会のミサに参加しました。親切なイラク人のクリスチャンと知り合いました。そしてクリスチャンになろうと思い、キリスト教講座に通います。

『旧約聖書』を読み、居眠りをしながら神父さんの解説を聞いていた記憶があります。

しかし、途中で教会に行くのをやめます。もともと信仰心がなかったので、宗教が自分の最上位にはなっていませんでした。

転職することになり、環境が変わったことで悩みに一旦蓋がされ、「無理に信じようとしたけど無理だった」無神論者に戻りました。

ただその時、キリスト教会について違和感を覚えていたことも記憶しています。

神を信仰しているのになぜ直接神に祈らずにイエス・キリストや聖母マリアに祈るのか?

『新約聖書』の福音書のどこにもイエス・キリストが神だという納得のいく根拠がないのになぜ三位一体説などというものが出てくるのか?

これらは宗教というよりも政治的にでっち上げられた物語ではないのか?

無心に祈っている一般信者が信仰心が強く、やたら理屈で納得や説明しようとする人たちは不信心なのではないか?──などなどです。

2016年冬、「生きる意味」について考える

本

昨年2016年の冬、生きる意味について考えることになりました。

母方の祖父が弱っており(今年の5月に亡くなりました)、「老人が苦しみながら生きているとしたら、ただの虐待じゃないか?」、「苦しんでまで生きる意味って何だ?」、「老人自身が自分で自分の生き方や死に方を判断できない──つまり自分の人生の基準となるものさしを見つけていない場合が多いのではないか?」など、さまざまなことを考え、モヤモヤとしていました。

同時に、自分自身についても同じでした。

お金を稼ぐ、結婚をする、家庭を作る、社会的に承認される、欲を満たす……このようなことは生き続けるモチベーションにはなりえないと感じました。

また、これらを生きるモチベーションにすることは、結局他の誰かに相互依存・相互従属することに繋がるようにも思えました。

最終、どこに行き着くのか?──他人に迷惑をかけながら、ただ長生きをして自分の欲を満たし続ける──そのような生き方は無期懲役と変わらないな、と思いました。

しかも、「生き続ける」ことはある種の人にとってはとても負担になります。

今、自殺が問題となっており、「自殺対策」という言葉も目に付きますが、その時期、私も自殺について調べました。

いろいろな意見を見ましたが、自殺をしないように説得する人たちの言っていることがあまりにも薄っぺらく、何も分からない人の戯れ言のようにしか感じられませんでした。

「自分の魂・人格を棄てて社会に従属し、生命を存続させ続けろ」という脅迫を感じました。

『ヨブ記』を読む

経緯は詳しく覚えていませんが、『旧約聖書』の『ヨブ記』を読もうと思い、読みました。

ヨブは神の教えに忠実な人でしたが、サタンはヨブの信仰心の動機を疑い(信仰することで財が得られるから信仰しているだけではないのか)、ヨブの信仰心を試すためにヨブから財を取り上げ信仰心を試そうとします。

神もこれを許可しました。

ヨブは財産や大切な人たちを奪われ、自分自身もひどい病に冒されますが、それでも神を信仰し続けました。

その後、ヨブのもとを訪れた友人たちとの問答、神との問答が続きます。

ヨブは信仰心の強い人でしたが、サタンに試され、いわゆる絶望的な状態に追い込まれます。

このヨブの試練から、「生きる意味」について何かヒントが得られるのではないかと思いましたが、私には良い答えを引き出すことはできませんでした。

この時期、『旧約聖書』のほか『新約聖書』、『クルアーン』も電子書籍で読みかじりました。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読む

『ヨブ記』が作中に登場する小説として、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みました。

この作品の「大審問官」という項は、よく哲学的な本などで取り上げられていることもあり、興味がありました。

ドストエフスキーの作品は、アラベスクのように織りなされる複雑怪奇な人間関係や運命、不完全な人間をリアルに描いていて感動しました。

しかし、文学作品として感動したものの、「生きる意味」ということへのヒントは得られませんでした。

小説を書くことからスピリチュアルへ

同じ時期、自分でも小説を書いていました。思いついたことをどんどん繋げて小説を書いていくと、何やら意味深な問題がいくつも持ち上がってきます。

また、不思議な偶然が相次いで起こります。

自分の小説の登場人物にふと思いついた名前(非常に珍しい名前)をつけ、気になった小説の本を開くと同じ登場人物名が目に付きます。

外出先でふと目の前のマンションを見上げると、マンション名がその登場人物の名前であることに気がつきます。

小説にイスラーム系の人が登場した矢先、駅でエジプト人のムスリムの方に道を尋ねられます。

前々から薄々感じていたことではありますが、自分が何かに遠隔操作され、どこかに導かれているということをどんどん確信していきます。

「スピリチュアルな情報は何が本当で何が嘘か判断できない」と考え、距離を置こうと考えていましたが、「自分の創造性を活かす」という一見非スピリチュアルな本を開くと、中にスピリチュアルなことが書かれており、スピリチュアルに気持ちが向かいます。

スピリチュアルを信じるか信じないかに関係なく、書かれている内容に納得がいくことに引きつけられました。

生きる意味や価値が見いだせず、閉塞感と虚無感漂う暗闇の世界に再び光が差し込んできたように思えました。

31歳の誕生日に感じたこと

お皿の上のケーキとフォーク

4月に31歳の誕生日を迎えました。自分が生まれたときのことを家族から聞くと、今の自分のあり方にとても納得がいきました。

私は小児仮死で生まれ、息を吹き返した後、保育器の中に入っていました。それが私にとって、この世界との出会いでした。

多くの人は、家族や周囲の人と関わる中で「世界とはこういうものだ」ということに目覚めていくのかも知れません。

しかし私の場合、他の人を介在させずに直接世界を見てしまったように思えます。

その世界が自分にとって真実の姿であり、後から教え込まれた世界観は他人の作ったフィクションのようにしか思えていなかったことを自覚しました。

そして私が世界と初めて向き合ったとき、そこには私だけではなく、誰かが存在していたことを感じました。

そしてその誰かはいつも私の人生に寄り添い、見守り続けていることも感じました。

ライティングの仕事でイスラム文化を紹介

2017年に、ライティングの仕事を始めました。たまたま「イスラム文化紹介」記事の仕事を見つけ、受注しました。

イスラームについてインターネットで検索し、情報を集めていく過程で、「信憑性のない雑な情報が溢れている」という印象を持ちました。

ライティングを通して「正確な情報だけを書きたい」と思うようになり、いつしかインターネット上の雑な情報に対して「そうじゃないんだ」と憤る自分がいました。

駅の書店で『クルアーン』に出会う

書棚に並んだ本

そんなある日、駅で時間があったのでたまたま書店に立ち寄ったところ、『日亜対訳クルアーン』が目に付きます。

以前は電子書籍で中途半端に読んだだけでしたが、しっかりとしたハードカバーの本で読み込んでみたいと思いました。

監修者の中田考先生もムスリムであり、スマホで調べたAmazonのレビューも良かったので、購入しました。以降、時間があれば『クルアーン』を読むようになりました。

インターネット上でムスリマ(女性イスラーム教徒)さんにシャハーダを教わる

いつの間にかインターネット上で礼拝の仕方やウドゥーの仕方(身の清め方)などを調べ、少しずつ実践するようになっていました。

イスラームに関する海外サイトで外国人のムスリマさんにイスラームに関する質問をし、対話したところ、「あなたは既に中身がムスリムですね」と言われ、自分でも納得しました。

そのムスリマさんがシャハーダの言葉を教えてくださり、自分の部屋でアッラーにシャハーダを行いました。

坂城町のモスクへ

シャハーダを手伝ってくださったムスリマさんたちの紹介で、長野県にもモスクがあることを知ります。5月12日の金曜日、初めてモスクを訪れました。

そこにいらっしゃたのはほとんどパキスタン人の方々で、パキスタン人ムスリムの方々に囲まれる中、イマームさんに導かれつつシャハーダを行いました。

イスラームに入って変わったこと

港を歩くムスリムの人たち

私は現在、イスラームについて初歩的な勉強をしている段階です。ムスリムとして未熟ではありますが、イスラームに入って良かったという実感は日々強くなっています。

「イスラームに入って変わったこと」や「良かったこと」、「気づき」、「見方が変わったこと」などは、また改めてまとめてみたいと思います。

長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

アッラーの平安と慈悲があなたに訪れますように。

.السلام عليكم ورحمة الله